和牛のふるさと 香美町小代

和牛のふるさととしての小代。
一頭一頭を大切に育ててきた、小代の誇り。
後世に受け継ぐ大切な文化遺産。

99.9%の事実

働き者の但馬牛

家族の一員

閉鎖育種

99.9%の事実

平成 24 2月、社団法人全国和牛登録協会の調べで、但馬牛について驚くべき数字が明らかになりました。 
全国の黒毛和牛の繁殖メス牛のうち、 99.9%の比率で「田尻号」という一頭の但馬牛の種オス牛の子孫である と証明されたのです。 
お母さん牛の 99.9%が「田尻号」の子孫ということは、生まれてくるほとんどの日本の黒毛和牛は「田尻号」の子孫ということになります。 
 

働き者の但馬牛

但馬牛はもともと田畑を耕すために飼われていて、小柄で小回りがきき、とてもよく働きました。田植えの時期が終わるとえさの草刈り、牛舎の掃除で管理が大変なため、昼間は集落から離れた山の上の放牧場で飼われていました。村岡区では標高900m、小代では集落から4km、標高500mの場所で放牧されていたそうです。
 

牛は大切な家族の一員

愛情を込めて飼われていた牛は、毎日のように丁寧にマッサージをしていたため、皮膚や毛が柔らかくなり、肉質も柔らかくなったと考えられています。
大事な働き手で、子牛を産んで生活を支えてくれる牛を家族の一員として、同じ屋根の下の一番日当りのいい場所を牛の寝床にし、愛情深く育てていました。
小代では、硬い稲わらや干し草を、囲炉裏の鍋で何時間も煮て、柔らかくしたり、家族のご飯を牛のために茶碗一杯分残して、食べさせたりもしていたそうです。

 
 
 
 
 

牛を愛する人々によって大切に育てられてきた『但馬牛』

 柔らかくて栄養豊富な野草や薬草を食べて、足腰の強い、健康で丈夫な牛になります。

但馬では「弁当忘れても傘忘れるな」と昔からいわれるほど、雨の多い地区で、昼夜の寒暖差も大きいのが特徴。山々には豊富な水と、その恵みの野草や薬草も豊富にありました。美方郡の植生は屋久島や小笠原諸島にも並ぶほど、豊かだという報告もあるのです。

但馬牛は、夏の間は、その柔らかくて栄養豊富な野草や薬草を食べ、毎日険しい山を往き来することで、足腰の強い、健康で丈夫な牛となっていったのです。

また雪の多い冬は「まや」と呼ばれる牛の寝床で飼われ、栄養が少なく硬い稲わらや干し草を与えられていたので、辛抱強く粗食にも耐えられる牛になったのです。

そうして鍛えられたしなやかな筋肉と、寒さから身を守るために細かい脂肪が入り、肉質に『霜降り』状態がうまれたといわれています。

小代の暮らしの中で、牛は大切な家族の一員。

長い年月、豊かな自然環境の中、何代にもわたって良質な草を食べ続けたおかげで、肉質は柔らかく、良質になり、毎日の運動で鍛えた体は健康で美しくなりました。なにより、家族の一員として、愛情たっぷりに育てられてきたため、おとなしい、飼い主のいうことをよく聞く、働き者の牛となったのです。

今のように広い道路もなく、交通事情もよくない時代には、人だけでも峠を越えて行き来するのは大変でしたから、牛の交配は狭い谷の中だけで行われていました。

小代の牛は、そうした閉鎖された、しかも素晴しい環境の中で、、日本一の牛となるべく、守られ続けてきたのです。

これは「閉鎖育種」と言い、現在では血統の差別化を保つために、意図的になされますが、小代の小さな谷で、偶然にも、優れた遺伝子がよい形で引き継がれてきたのです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

「前田周助」牛好きな一人の男と牛の物語。

 小代の人の生活が少しでも楽になるように。どこよりも素晴らしい牛を作り上げた。


周助さんは、1797年生まれ、猪ノ谷という戸数10戸ほどの小さな村に暮らしていました。小さな頃から大の牛好きで、よい牛を見定める眼を持っていました。頭もよく、知恵の働く人だったといわれています。

周助さんは、よい牛がいると、親のお金や財産を使うばかりか、親戚や姉の嫁ぎ先、奥さんの実家にまで借金をして、牛を買い求めたそうです。

現在「系統」の基礎となっている母牛には、今の価値にして2,000万円もの大金を払ったと言われています。

周助さんがここまでしてよい牛を買い求めたのは、お金儲けのためではありませんでした。

小代の谷は「蓑笠にも隠れる」と言われる程小さな棚田や田畑が多く、農家の暮らしは楽ではありませんでした。


周助さんは、この小代の谷の人々が少しでも楽に暮らすために、どこよりも優れた牛を作り、高く売れるようにすることが一番の方法と考え、そのための仕組みつくりをしようと考えたのです。

良い母牛からは良いメス子牛が生まれることに気づいた周助さんは、小代の全ての村を歩き、子牛の生まれた場所や日付、所有者、父牛、その特徴まで、小代の全ての牛について記録していきました。

時には村岡や養父まで牛を見に行き、良い母牛が見つかると大金をはたいて買い取り、中でも優れた牛は、小代の親戚や知人に預けたり、安くで売って、小代の谷に残すようにしました。

そして、とうとう『但馬牛』とよばれる前の『小代牛』の基礎となる母牛に出会いました。この牛が産む子牛はみんな母牛に似た良い牛になり、またその牛も良いうしばかり産みました。他の地域から、これらの母牛を売って欲しいと切望されましたが、周助さんは、絶対にこれらの牛を小代から出さず、小代の中で「小代牛」の一大系統を作ることに成功しました。

こうして、周助さんの努力で小代の谷の子牛は、その後高値で飛ぶように売れ、『小代牛』は但馬の牛の代表となりました。

 

守られ続けた『小代牛』のはなし

しかし、明治時代に入り、文明開化の波が訪れると、小柄な日本の牛を外国の牛のような体格のいいものにしようと、外国種のオス牛を交配に使うようになり、但馬でもその交配が進んできました。

これは、後に大きな失敗となり、気性の荒い、大食らいな、働かない牛となり、病気も多く、肉質も低下し、良牛を生み出す血統「純粋種が姿を消す」という危機をむかえることになるのです。 

周助さんの作った『小代牛』は『周助蔓~しゅうすけづる~』とよばれ、優れたメスの血統集団とされていました。 

外国種との交配が失敗に終わった但馬牛でしたが、終戦後、元の素晴しい但馬牛を取り戻そうと、新しい血統の基礎作りが始まります。

この時、注目されたのが小代でも最も山深い標高700mの高地で飼われていた周助蔓の牛たちでした。ここでは、他の村からも遠く離れていて、外国種との交配を免れた純粋な小代牛が奇跡的に残っていたのです。

新しい但馬牛の血統は、その基礎となった牛『あつ』と、牛たちが暮らしていた『熱田村』にちなんで『あつた蔓』と名付けられました。

現在、全国の黒毛和牛の99.9%がその子孫と判明した名牛『田尻号』は、この『あつた蔓』の中から生まれたのです。

究極の牛『田尻号』の存在


『田尻号』
 
 

田尻松蔵さんと但馬牛
 
 
 

田尻号顕彰碑(小代区神水)
   

遺伝力の強さで99.9%

世界に誇る和牛肉の原点は、この『田尻号』にあり。

『田尻号』が田尻松蔵さん宅に昭和14年に生まれました。

『田尻号』は他の種オス牛の倍の年月を病気をすることもなく、昭和29年まで活躍したのです。田尻号の優れた点は、遺伝力の強さ。特に肉質に関する遺伝的能力は優れ、世界に誇る和牛肉の原点は、この『田尻号』にあると言ってもいいでしょう。

但馬牛の歴史を語る上でなくてはならない人物その二人目が、この田尻松蔵さん。松蔵さんも、周助さんと同じように、小さい頃から大の牛好きで、良い牛を見る眼を持っていました。そして、田尻号の母牛「ふく江」に出会い、松蔵さんも、多額の借金をして、「ふく江」を手に入れたそうです。よほど素晴しい母牛だったのでしょう。ふく江を大変かわいがり、毎日運動、マッサージを欠かさず、良い草を食べさせるために、山を切り開いて草地まで作ったそうです。

田尻号はこのふく江が生んだ4頭目の子牛でした。松蔵さんは、この子牛が良い種オス牛になると信じて疑わず、ふく江と同じように、毎日運動と、手入れを欠かしませんでした。

松蔵さんの日々の努力により、田尻号は生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められ、現在の但馬牛の元祖となる第一歩を踏み出したのです。

松蔵さんは、田尻号を生産した功績が認められ、昭和30年に黄綬褒賞を受賞しています。

田尻号の功績をたたえて建てられた顕彰碑には、このように書かれています。

『この名牛が生まれたのは偶然ではない。自然的な要因と人為的な条件が融合しなければ叶わなかった』 

名高い『但馬牛』の礎を築てきた小代。

小代の地に、優良牛を生産するのに適した自然環境と地理的環境が揃っていたこと、そして、前田周助さんや、田尻松蔵さんのように、良い牛を見極める力を持ち、優良牛生産に情熱を注いできた人々の努力があってこそ、生まれた『但馬牛』。

そして、今もなお、愛情を注がれて大切に育てられている『但馬牛』。

「和牛のふるさと」として、繁殖農家は松坂、神戸への和牛の出荷をしている。
小さい規模の農家が多く、棚田の畦の草を牛の飼料にしたり、牛堆肥使用など農畜連携の循環型農業が根付いている。という点が評価され、『日本で最も美しい村』への加盟につながりました。
 

和牛のふるさと 香美町小代